〜紙流通と谷川の歴史100年〜
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中国の後漢時代に製法が発明された「紙」は、西と東に伝来され、日本では和紙になり、西では新聞紙に代表される大量生産に向いた「洋紙」として発達しました。
明治維新以後の日本では、文明開化の波とともに発達した各地の新聞事業が、その大量生産に向いた「洋紙」を定着させていく時期でもありました。
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谷川運輸倉庫の創業者である谷川茂次郎が、当社の前身である「谷川運送店」の出張所を、大阪は梅田停車場前貨物西口に置いたのは、明治の新聞文化もしっかりと根付き始めていた35年のこと。洋紙を中心に新聞用紙(巻取紙)や一般紙の配送を自家用の荷馬車と傭車を使って行っていました。
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谷川茂次郎は当時の関西新聞業界へも多様な関わりを持っており、大正5年には経営難に陥っていた関西日日新聞に個人融資を行ったり、新聞紙の安定的な供給に対して製紙会社や在阪の新聞社数社から表彰状を贈られるなど、積極的に新聞業界の発展に寄与した人でもありました。
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大正13年には、大阪朝日の元日発行部数、大阪毎日新聞社の発行部数が100万部を突破するなど、新聞用紙の使用量は次第に増加し、新聞巻取紙の陸揚げも、人力作業から自動式ウィンチへ変わるなど機械化が進んでいました。
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しかし、新聞業界の活気とは裏腹に、大正12年の関東大震災以後、昭和4年の世界恐慌、昭和5年の金解禁、昭和6年の満州事変の勃発など世情は不安定な要素を多くはらんでいました。
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そんな中、イギリス・フランスがドイツに対して宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった昭和14年、谷川運送店は株式会社としてスタートします。しかし、その翌年には創業者である谷川茂次郎が死去。戦火の中にリーダーなき航路を見出す旅立ちとなったのです。
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昭和16年には日本が対英米に宣戦。太平洋戦争へと突入していきます。当時、経済封鎖状態にあった日本では、各種の資材は統制下におかれ、商工省は洋紙、板紙、和紙のすべてにわたって紙も配給統制。製紙会社は統制会社以外への販売を禁止されるようになりました。
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昭和19年には、統制会社令に基づき、倉庫業者54社を糾合して、日本倉庫統制株式会社が設立。谷川運送店も受命業者として業務を行っていました。
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しかし戦火はますまず激しくなり、翌年の昭和20年には大阪大空襲により本社、営業所、自社倉庫が焼失。しかし、従業員宿舎と配送に利用していた荷馬車用の馬14頭を収容した厩舎は無事。なんとか業務を継続したのでした。
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終戦にともない日本倉庫統制会社は解散。昭和21年には焼失した本社跡地に新社屋を建設し、商号を「谷川運輸株式会社」に改めて新たなスタートとしました。
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当時の機動力は荷馬車13台、肩引き車3台、下請け業者扱いの荷馬車が5台という規模でした。それから数年で運送の主役は三輪トラックやトラックに代替わりしていくことになります。
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昭和31年には現在の「谷川運輸倉庫株式会社」に商号を改めましたが、この当時保有していた大型貨物自動車は30台前後。しかし、その後の高度経済成長は情報も物流も大きく変化させ新聞の発行部数も飛躍的に伸び、石油ショックの年、昭和48年には許可車両台数103台にまで増えていたのです。
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石油ショック時には、製紙会社への重油供給量が10%削減されるなど、紙の流通にも影響を与えましたが、大きな混乱もなく時代は経済発展の時代から、省エネルギー、環境保全の平成へと移り変わっていきます。
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創業100周年を迎えた谷川運輸倉庫では、
倉庫数40
、
保有車両数200台
、
社員数300名
の所帯となりました。これからの時代を見据えた
モーダルシフト対応
や、
情報化
などの施策で、21世紀の紙流通に対応してまいります。
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